もし、昨日の夜ラーメンを食べていたら

もし仮に、全く同じ質量の、全く同じ構造の俺が今ここに2人同時に存在したとする。

その2人が同時に綺麗な景色を見たとする。そのとき、感じることは全く同じだろう。

でももし、昨晩、夕食に食べたものが違ったなら。1人がカレーを食べて、もう1人がラーメンを食べていたら。

たったそれだけで感じることは違うと思う。

そんな風に些細なことの違いが無限に重なって、無限の感情がある。

綺麗な夜景を見て、「綺麗だ」と思う。この表現は間違ってない。

一方で、「綺麗だ」と形容してしまったその瞬間に、綺麗だと、辞書で引いたような、共通にある当たり前のような表現に収束したその瞬間に、自分自身でしか感じ得ない、いやもはや自分ですら感じ得ない、感情の機微が捨てられてしまう。

その、捨てられてしまう、ほんの些細な感情が惜しい。もしそれが表現できたらならどんなに素晴らしいだろう。

言葉でも音楽でも絵でもなんでもいい。簡単に捨てられてしまう繊細な、例えるなら、太い幹の先の幾重にも別れた枝のその先の葉の葉脈の中にある、維管束の中のその一本の中に流れる一滴の水。その一滴の水が個性だと思う。

だから、木で言うところの太い幹のような、美味しい、楽しい、憎い、偉い、とか、すでに形容された大雑把な感情はさておき、もっともっと形容しがたい感情を感じて、何らかの形で表現したい。

それがもし、誰かに伝わったなら、それができることが表現者、アーティストだと思う。

息をして、言葉を話して、共感して、伝え合って、わかり合って、慰めあって、支え合って、そうやって人は生きている。今の俺はそうやってなんとか生きながらえている。

もっともっと理解して、共感できたなら、寂しくて苦しんでる人を少しでも心地よくできるんじゃないか。

そしたら、人はもっと幸せになると思う。

綺麗な形をした立方体のような人間が美しいとされる時代は終わった。立方体の集合体はロボットやAIに代わってもらおう。

僕らに必要なのは、お金でも地位でもなく、繊細な感情とそれを理解し合える寛容さと、表現力を高める努力、それに加えて自然に努力出来るような向上心を持つこと、つまり環境を整えること。仲間と高め合える雰囲気を作ろうとする精神が尊いと思う。そう信じている。

つまり、自分のためにも他の誰かを応援する、ということ。

もし隣の誰かを心の底から応援できたなら、その誰かはあなたを応援してくれる。

なんの迷いもなく、なんの濁りもなく、純粋に他の誰かを全力で応援することができたなら、それだけで人類の中で最も尊い人になれる。

逆に、誰かを憎んだり、足を引っ張ったりすれば、どうなるかな?考えるまでもない。

かといって、世の中で悪いとされる感情が悪いとは思わない。自分の中にいる弱い自分ときちんと向き合って、悪い感情と戦う。それができたら立派だ。

向き合って、戦って、勝って、腑に落ちたら、ベロンと一皮向けて成長する。

そしたら次に戦わなくちゃいけないものが出てくる。

なんも考えず、黙ってるだけじゃダメなんだ。

痛くて痛くてヒリヒリする。上顎の奥がずっしり重くて頭が回らない。苦しくて脳が麻痺して、脳の真ん中が痛くて変な音がする。

この痛みが今の自分の弱さ。

この痛みの解消法を身につけつつ、かつ全力で周りの人を応援できるようになる。それが今の課題。

これがあってるかどうか、そんなん知らん。今はそう思う。それだけ。

以上

高橋央でした。

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